私は小さい頃から、一人で空想の世界に浸るのが好きだった。小学3年生の頃、自分の掌を見つめながら、「ここに私がいて、今、生きているんだな…」と静かな驚きに耽ることが度々あった。またある時は、「自分の見ているリンゴは赤色だとして、他人もそのリンゴを赤いと言うけど、自分の認識する赤色と、その人のそれは、異なるかもしれない」…といった具合に、証明不可能なことを考え込むこともよくあった。そして、中学に進学した頃、「人は何故生きるのだろう?どうせみんな死ぬのに、何のために生まれるのだろう?」という疑問が湧いてきた。そして大学3年生の時(1997年)、その答えを探しに、家族に黙って行き当たりばったりのインド行脚を決行したのだった。
それまでは、いわゆる「いい子」だった私が、突拍子もない行動に出たのは、上げ膳据え膳の日々に我慢の限界を感じたからだ。その当時の私の内面は、自分でも手に負えない暴れ馬だった。過干渉・過保護で守られた毎日に窒息しそうな息苦しさを抱えていたのだ。
大学に進学してから間もなく摂食障害になり(当時は病識がなかった)、音楽大学を中退し、ピアニストの夢を断念して、この先どう生きていけばいいのかわからない迷いのさなかにいた。そんな時、枕元のお告げというのか、夢と現実の狭間で目覚めの瞬間に、これまで縁もゆかりもないインドに行くイメージが鮮明に浮かんだのである。私はなぜか確信し、その翌日にはパスポートの手続きをしていた。何せ海外は初めてであるのに加え、ヒンドゥー語はもちろん英語も話せないというのに…。今思えば、大胆なことをしたと苦笑するが、いつも人の後に隠れて歩くような気弱な私が、自分で決めて行動するというのは、初めて親に、世間に、刃向かう遅咲きの反逆者とでも言おうか。その決断は不思議なことに、疑いや恐れが全くなかったのである。怖さをまだ知らないがゆえの勢いもあったかもしれない。「できるかできないか」すら、考えに及ばないくらい、当たり前のように決断していた。インドでは何もハプニングがない日がないくらい困り事続きであったが、旅の終盤にはそれを面白がる余裕もできた。高く物を売りつけようとする商人から一歩も譲らない私は、ついに「You are Strong!」と言わしめるほど強くなっていたのだ。
しかし40日間のインド行脚から帰えれば元の木阿弥、守られた環境に身を置けばまた頼りない自分に自信喪失。そして翌年(1998年)、懲りずに、今度は自転車で日本一周を決行。当時はケータイやインターネットも普及していない時代。方向音痴の私が日本道路地図とコンパスを持って、道路標識を確かめながらペダルを踏む。それまで運動もろくにしてこなかったのに、いきなり30㎏の荷物を積んだ自転車を漕ぐのは、慣れるまでしばらく時間を要した。前輪と後輪の両脇と前後のスペースに分けて鞄を提げて、その中身はといえば、テントや寝袋、コンロに鍋、空気入れやパンク修理道具、ヘッドライトやラジオ等…。この不自由さの中で、無ければ無いなりに、今有るものから知恵を絞り、可能性につなげることが楽しかった。この「困った状況」に身を置くことが、どこか嬉しかった。泥まみれになりながら、自分を頼もしく感じることができた。
結局二度に渡る家出で分かったことは、「答えは遠くにあるのではなく、どうやら自分の中にありそうだ」ということだった。その後ひきこもりや摂食障害を乗り越えて、40歳を過ぎてようやく腑に落ちる答えが見出せたと思っている。それは、生きるとは味わうことである。そして、味わうとは自分を生かすことである。