生きていけない

 「お父さんとお母さんが死んだら、私は一人ぼっちになって生きていけない」
 物心ついた頃から、眠る前の布団の中で、一人取り残される自分の行く末を案じては、声を忍ばせ泣いていた。今でこそ40歳を過ぎてからの出産は珍しくないようであるが、私が保育園に預けられていた頃は、同年代の人の親のほとんどは20代後半から30歳そこそこであった。特に父は、一回り以上年齢が離れているだけに、よく祖父に間違われたものだった。

 「お父さんとお母さんを悲しませたら、ショックを受けてすぐ死んでしまう」
 私の心に巣食う、突如として襲いかかるかも知れぬ分離への不安は、私の「子供らしさ」を封じさせ、「従順で大人しい子」でいることを、当然の処世術としてあてがわれた。幼い私が生きながらえる唯一の方法は、両親のマスコット的存在であることで、両親を安心させなければならないと信じて疑わなかったのだ。

 「私は独りになる」という思念は、常に一貫して私の中心にあった。それもそのはず、47歳を迎えようとしている現在まで独り身である。「思考は現実化する」と言われたりするが、実際にそうなってみると、その言葉を実証した感が否めない。恋愛はいくつか経験はあるものの、なかなか進展しなかったのは、今思えば、恋愛が成就しないことを、あえて選んでいたのではないかと思い当たる節がある。何故そうしていたのだろうかと掘り下げていくと、私の原体験が発端になっているのではないかという思いに行き着いた。それは、「失うことの恐れ」である。私達は誰もが、「愛する者との別れ」を経験することを避けられないであろう。家族であれ、友人であれ、いつかは「死」という別れがやってくるものだ。私は幼い頃から「両親の死」や「自分の孤独」を、日常的に想像していたこともあるためか、「他者との繋がり」をどこかで避けていたように思う。何故ならば、深く繋がれば繋がるほど、失う恐れを膨らまされるように感じたからだ。

 思い返せば幼い頃から、家族旅行から帰る車中や、家族写真を撮る時など、胸が締め付けられるような感覚があった。それは、かけがえのない思い出の数々が、いつかの別れの時に思い出されて、悲しみに打ち拉がれるであろうと、幼心に予感したからであった。両親の笑顔が脳裏に焼き付くほど、それを失うことの落差を憂い、思い出を作ることに消極的になっていた。その逃避は、その後社会の人との関わり方においても、繰り返し行われていたように思う。

 昨年父を看取り、認知症の母は施設に入居を余儀なくされ、三人家族が離ればなれになってから、人の栄枯盛衰を、ふと我が身と重ね、物思いにふけることがある。それも起因しているのか、「人との深い繋がり」や「信頼できる関係」というものを、もっと感じてみたいという欲求が、遅ればせながら芽生えてきたように思う。愛する人を失わないために、強いて愛を育まない安泰より、愛する人と別つまで、愛を捧げ合う経験をしてみてもいいと思うようになった。

 「愛」という言葉を、ずっとどこかで反射的に、「偽善臭い」という印象をもっていた。その一方で、「簡単に口にすべからず」といった、ある種の神聖化による隔たりを感じていたが、両親との別離から、「私は愛されていた」ということを実感し受け入れたことがきっかけとなり、「愛する」という人間の根源的なテーマを、「我が事」とさせる局面に否応なく立たされているかのように感じている。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。